





トンネルを抜けるとそこには「わたのまち」がある…そう思い込んでいた。「街の繊維産業に光を当てる映画を作ってほしい」と市の依頼を受け、三河・蒲郡市を訪れた監督は途方に暮れた。1200年前、日本に初めて綿花がもたらされた街。戦後、衣類が不足する中、織れば飛ぶように売れた空前の好景気で朝から晩まで街のあちこちで「ガチャン、ガチャン」と音が鳴り響いていた。しかし、かつての活気は失われ、織機の音も聞こえてこない。そこにあるのは、街の構造的な問題と人々の諦めムードだった。ここに描くべき希望があるのか?映画制作は難航を極める。そんな中、わたを種から育て紡ぐ80歳の職人と出会い、映画作りがその職人の背中を押し、街を揺さぶり、人々の眠っていた情熱が燃え上がっていく。そして、舞台は蒲郡からロンドンへ怒涛の如く展開し、日本のモノ作りの本気が、海を越えて人々の心を掴み、「繊維の街」に奇跡をもたらす。
2020年、「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい 写真家 森山大道」でデビュー、世界にインパクトを与えた映画監督・岩間玄が、「進め!電波少年」などのテレビ界の伝説的プロデューサー・土屋敏男とがっぷり四つに組んで送るド迫力と感動のエンタメドキュメンタリー。映画制作に苦闘する二人はやがて「モノ作りとは何か?」という自らの覚悟をも試される展開を迎えていく。語りは『ケイコ 目を澄ませて』(22)で第46回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞ほか数々の賞を受賞した岸井ゆきの。これは決してこぢんまりした産業映画ではない。それどころか、作り手も被写体も予想だにしなかった方向に転がり出し、予定調和を次々と破壊する再生と復活への狼煙の物語である。

今から1200年前、日本に初めて綿花がもたらされた三河地方。江戸時代には三河地方で綿の栽培と綿織物が盛んとなり、製品は江戸方面に送られ人気を博した。さらに西洋の技術を取り入れ、明治時代には「三河もめん」「三河縞」というブランド名で全国に知れ渡る。そして、戦後、衣類が不足する中、織れば飛ぶように売れる空前の好景気が訪れる。織機をガチャンと動かせば万の金が儲かる「ガチャ万景気」と言われ、朝から晩まで街のあちこちで「ガチャン、ガチャン」と音が鳴り響いていた。日本全国からモノと金と仕事を求めて人が押し寄せた。街は情熱と活気に溢れ、人々は希望に燃えていた。働き口はいくらでもあった。「ガチャ万景気」は形を変え、名を変え、しばらく続いた。バブル崩壊の波も乗り越えたが、2000年、突然、好況神話は音を立てて崩れ落ちる。安価な海外生産品が出回り、対抗出来なくなった。ある者は工場を閉め、ある者は業界を去り、ある者は業態を変え、ある者は自らの命を絶った。
産元(産地問屋)・撚糸・織布・染色整理・縫製などが有機的に連携し、一次加工品から最終製品までを地域内で一貫して生産が可能で各工程での高い技術を背景に、多様なニーズに対応できる産地として知られている。市も繊維産業の再興を目指し市内の繊維業者の若手を集めて全国規模のファッションショーに出品するプロジェクトで動き出した。



企画・プロデュース 土屋 敏男
1979年3月一橋大学社会学部卒。同年4月日本テレビ放送網入社。 「元気が出るテレビ」「ウッチャンナンチャンのウリナリ!」などバラエティ番組を演出。「電波少年」シリーズではTプロデューサー・T部長として出演した。2017年に萩本欽一のドキュメンタリー映画『We Love Television?』を監督・企画・構成を務めた。2022年9月に日本テレビ放送網を退社し、同年にGontents合同会社を設立。
<主な活動>
•24時間生放送チャンネル「CS電波少年的放送局」(2001年)
•日本最初のテレビ局のインターネット事業「第2日本テレビ」(2005年)
•地球を4年かけて走って世界一周「間寛平アースマラソン」(2008~2011年)
•「岡本太郎『明日の神話』修復プロジェクト」
•「NHK×日テレ60番勝負」 など
•一般社団法人「1964 TOKYO VR」をライゾマティクス齋藤精一氏らと2017年設立。代表理事。
•テレビ界の巨人、萩本欽一を追ったドキュメンタリー映画「We Love Television?」監督
•2018年4月~2020年3月 東京大学大学院情報学環教育部 非常勤講師
•2019年夏(7月~9月)3Dスキャナーを使った観客参加ライブエンタテインメント『NO BORDER』企画・演出
•2021年1月 WOWOWで「電波少年W~あなたのテレビの記憶を集めた~い」企画・演出・出演
•2022年10月~ 愛知県豊田市ケーブルテレビ ひまわりネットワーク アドバイザー
•2022年11月~2024年3月 WOWOW 新規事業アドバイザー
•NPO法人カマコン(鎌倉市を活性化する目的の団体)理事

監督 岩間 玄(いわま げん)
1966年、北海道生まれ。名古屋育ち。早稲田大学第一文学部・美術史学専修卒業。1991年、日本テレビ放送網入社。以降30年以上に渡り、多くの番組の企画・演出・プロデュースを担当。
「はじめてのおつかい」「高校生クイズ」「24時間テレビ」「記憶のチカラ」「ヒットメーカー阿久悠物語」「スタジオジブリ物語」「時空警察」などを制作。
1996年「路上の犬は何を見たか?写真家・森山大道1996」の演出を皮切りに、スタジオジブリやレオナルド・ダ・ヴィンチ等のアート番組の制作に着手。バチカンのシスティーナ礼拝堂の修復をきっかけとした美術番組、「ルネサンス時空の旅人」シリーズ(芸術祭参加作品)で総監督を務める。
2003年より岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」復活プロジェクトにドキュメンタリー総監督として中心的に携わる。JR東海「そうだ京都、行こう」のキャンペーンシリーズ番組では松下奈緒・栗山千明らを起用、企画・構成・総監督を10年以上務めてきた。大和証券グループ、日本テレビホールディングス、ダイワハウスなどの企業コマーシャルやスペシャル番組も演出。
2014年、当時一般にはほとんど無名の存在だったチームラボを見い出し、東京初の大規模個展を企画・立案・制作・総合プロデュース。46万人という日本科学未来館開館以来の史上最高動員記録を達成。チームラボ初の図録の執筆も担当する。
また新江ノ島水族館でデジタルアートと水族館のコラボイベント「ナイトアクアリウム」を世界で初めて企画・制作し、メガヒットを記録。
ルーヴル、オルセー、エルミタージュ、ウフィッツィ、バチカン美術館など世界中のミュージアムを舞台にした数多くのドキュメンタリー記録番組を制作。2013年には、東京国立博物館で「特別展:京都」の映像制作を演出総指揮。龍安寺の石庭を一年間4台の4Kカメラで撮影、実寸大で展示してATP特別賞を受賞。また番組だけではなく多くの美術展も企画・制作・総指揮。
主なものでは「ディズニーアート展」「バンクシーって誰?展」「チームラボ踊る!アートと、学ぶ!未来の遊園地」「ルーヴル美術館展」「俺たちの国芳、わたしの国貞」「エルミタージュ美術館展」など。
2020年、劇場用映画「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい 写真家 森山大道」で映画監督デビュー。ストリートスナップの世界的名手の制作工程を映画化した。
パリフォト・フィルムセクション、イギリス・レインダンス映画祭、韓国・全州国際映画祭、中国・西湖国際ドキュメンタリー映画祭、南仏・国際アートブック&フィルムフェス等で正式招待・ノミネート・受賞。米・英・仏・独・伊・中・韓など世界中でも商業公開される。
2023年独立し、株式会社ON THE SCENEを設立。映画・ジャンルの垣根を超えて活動。現在は、ゲーム「ファイナルファンタジー」で知られる画家・天野喜孝の超大作制作にも密着し、2025年以降劇場用ドキュメンタリー映画として全世界でロードショー公開する予定。
ATP賞優秀賞・奨励賞・特別賞、ギャラクシー賞、テレビ記者賞、AMDデジタルコンテンツオブジイヤー賞、年間ベストテレビ作品賞、コロンバス国際映画祭優秀賞等、受賞。
主なメディア露出は、「美術手帖」「BRUTUS」「新潮」などでインタビュー・対談・寄稿・エッセイ執筆等。


岸井 ゆきの
1992年、神奈川県出身。
2009年にドラマで俳優デビュー。映画初主演となった『おじいちゃん、死んじゃったって。』(17)で第39回ヨコハマ映画祭最優秀新人賞を受賞。恋愛への執着が強いヒロインを好演した『愛がなんだ』(19)で第11回TAMA映画祭最優秀新進女優賞および第43回日本アカデミー賞新人賞を獲得。耳の不自由なプロボクサーを演じた『ケイコ 目を澄ませて』(22)では、第46回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞をはじめ、第77回毎日映画コンクール女優主演賞など様々な賞を受賞した。
そのほかの主な出演作に『やがて海へと届く』(22)『神は見返りを求める』(22)『若き見知らぬ者たち』(24)などがある。


浅薄なプロデューサーと愚直な方法にこだわった監督が作った奇跡の映画
「蒲郡の繊維産業についての映画を作りませんか?」と地元のケーブルテレビの方から言われてすぐさま「やります!」と答えた。僕はいつもそうだ。『日曜日の夜10時半の枠3ヶ月だけ繋いでくれないか?』と言われた時も「やります!」と答えて3ヶ月どころか10年以上もやったのが「電波少年」だ。とりあえず脊髄反射で返事してから何をやるか考える。
製作発表の記者会見も何も考えずに行って「これはお客さんに見てもらう映画なのか?(蒲郡の)プロモーション映画なのか?」と記者の方に聞かれた時も「半々ですかね」とか適当に答えた。しかしそう答えた瞬間に隣に座っていた岩間玄監督から非常に強い圧を感じたのだった。『僕はそんなプロモーション映画を撮るつもりはないですよ』口では決して言わなかったが僕には間違いなくその声が聞こえた。
その日から岩間監督の取材が蒲郡の中で始まった。彼は聞き続けた。「三河木綿ってなんですか?」答えは一つじゃなかった。「三河地方で作る綿製品は全部三河木綿ってことでいいんじゃない?」「最近のヒット商品“5重折ガーゼ”のこと」「三河縞というストライプ柄が昔からあってそのこと」「柔道着や剣道着の刺し子織のこと」
僕はまあ色々あるんならそれはそれでいいか?と思ったが岩間監督は納得しなかった。スーパーの自転車売り場で自転車を買って蒲郡市内を走り回って「三河木綿ってなんですか?」という質問をし続けた。何日も何週間も何ヶ月も。僕はどこかに行き着くのだろうか?と心配になったがもう口を出しはしなかった。
そしてある日LINEが来た。「ようやく納得できる答えを見つけました!」
浅薄なプロデューサーと愚直な方法にこだわった監督の組み合わせではあったが一つだけ意見が一致していることがあった。それは「本物が本気になっているところだけが映画になる」ということ。だからそのLINEは「本物の本気」をついに見つけたってことなんだろうと得心した。今考えるとこの岩間監督の愚直さがこの後次々に起こる「奇跡」を引き起こしたのだと間違いなく思う。いやこの映画を作るという思いの愚直さが「本物の本気」も引き出したのだ。それから次々と奇跡の出会いが起こり、気がついたら僕と岩間監督はロンドンにいた。
最初に「やります!」と気楽に答えた日から11ヶ月後だった。本当に奇跡のような日々だったなあと思い返したのだが最後の最後にとっておきの奇跡が待っていた。
この映画「わたのまち、応答セヨ」は一人の監督の愚直さに“わたの神様”と“映画の神様”が微笑んだ奇跡の映画なのです。
土屋敏男 (企画・プロデュース)
「目を凝らせ、耳を澄ませろ」と、綿の神様が僕らに告げた
「写真なんて写ればいいんだから、写ればしめたものよ」 これは前作、「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」で追った世界的写真家の森山大道さんが僕に言った言葉だ。「写ればいいんだから」というのは、もちろん森山さん一流のジョーク(しかし半分本気)だ。ただ言いたかったことはよく分かる。「どんなカメラで撮るかじゃない。何を撮るか」なんだと。何を撮るか。そしてそれをどう撮り続けるか。そのことに集中しろ、と言いたかったのだ。
今回も、その言葉を思い出しながら僕は来る日も来る日も蒲郡を訪ねた。市から「斜陽化する繊維産業の希望を描いてほしい」と請われて作り始めた映画だったが、その制作は難航を極めた。「何を撮るか」の「何を」がどうしても見つからないのだ。単なる企業紹介ならそんなに難しいことじゃない。キリッとした映像を撮ってスタイリッシュに編集し、気の利いたナレーションでまとめ上げれば、見映えのいいプロモーション映画にはなる。その程度の自信はあった。
けれど、それで本当にこの街の繊維産業の希望を描いたことになるのか。僕と土屋プロデューサーの煩悶は続いた。希望を描く?希望って何だろう。希望を描くためには、一度真正面から絶望と現実に向き合うしかないのではないか。東京と蒲郡の往復を繰り返すうちに、次第に僕は焦り始め、迷い始めた。「写ればいいんだから、写ればしめたものよ」という森山大道さんの言葉を噛み締めながら、「でも何が写れば映画になるんだろう」と自問自答していた。会う人会う人に「地元名産の三河木綿とは何ですか?」「なぜ繊維産業は斜陽になったのですか?」と聞いて回った。機材を抱えて、ママチャリで市内を爆走する奇異な姿を目撃した方もいらっしゃるだろう。はい、それ、僕です。映画を作っているとは誰も思わなかったでしょう。
どうしよう。描くべき被写体が、その核が見つけられない。
何を撮るか、それをどう撮り続けるか。
迷子になり、被写体を見失って・・・僕はほとんど挫折しかけていた。
ある日いつものように市内を走り回っていた時、「綿の神様」が突然僕に囁いた。目を凝らしてみろ、耳を澄ませろ。描くべきものは、ほら、そこにあるじゃないか。お前の足元に。
気づくと僕は、1200年の綿文化の歴史のど真ん中に放り込まれていた。
歴史の渦の中に、この映画の存在自体が巻き込まれていることを知った。
もう迷っている場合ではなかった。
そして・・・撮り続けたその先に、想像を絶する“奇跡”が待っていた。
岩間 玄 (監督)
かつて、日本一の繊維の街だった愛知県三河地方のものがたり。
"三河の綿"と共に旅をし、海を超え、最後に奇跡みたいなほんとうの瞬間に出会います。 情熱で紡がれた歴史は、いつか奇跡になり得るのだと何度も胸が熱くなり、夢中で彼らを追いかけていました。
そしてうつくしい三河の綿の歴史がこれからも鮮やかに続いていきますように。
岸井ゆきの (語り)